2014年御翼2月号その1

子どもたちに信仰を伝えるために――― ジョン・ドレッシャー牧師

 「子どもたちは、学習者です。いつでもどこでも学んでいます。座る時にも、歩く時にも、走る時にも、立つ時にも、半ば居眠りしている時にも。目と耳、指、足、皮膚、想像力、感覚を通して、感じや表現をつかみ、吸収します。彼らは私たちが学んでほしいと思っている時だけでなく、そう思っていない時にも学んでいるのです」と、ジョン・ドレッシャー牧師は著書『子どもに信仰を伝えるための20章』(CS成長センター)で述べている。人生で、家庭生活以上に個人的な影響が強い場はないのだ。そして、子どもの人格形成に最も強力な刺激を与えるのは、直接的、具体的なしつけではなく、お手本と、親が当たり前としてもっている価値観なのである。

感情と態度に注意する

 子どもたちはふだんの親のふるまいを通して神を知る。家庭はキリストへの信仰を養う土台なのだ。子どもはまず家庭において、何が重要であるかを感じ取り、これが彼らの人生とその意味についての最初の見方となる。
 子どもは親の感情や態度を、生まれた時から、つまりことばを理解する以前から身につけはじめる。多くの研究家は、子どもが誕生する前においてさえ、親の感情や反応に応答していると語っている。すでに胎児の段階から、人生や霊的なこと、世俗的なことへの感情、さらに命や神、聖書、他人や物への態度を吸収するというのだ。子どもの人格形成に、感情は重要な役割を演じる。もし、父親がスポーツ活動に熱中し、霊的なことにはほとんど関心を示さず、めったに語らず、犠牲も払おうとしないならば、子どもは父親が、何をより大事にしているかを感じる。親たち自身が神との関係を育て、主にある喜びのうちに生活する必要がある。自分自身の霊性や情緒的な健康に注意を払うなら、子どもたちに与える影響はよいものになるのだ。親や教師たちが、神に関わる様々なことで抱く尊敬、興奮、喜びほど、彼らの印象に残るものはない。
心理学者たちが語るのは、教えることよりも感情的な接触が、まず間違いなく心の強さ、弱さを決定する、ということである。感情的な触れ合いが温かく、愛情と思いやりのあるものならば、強い心をもった子どもに育つ。しかしもしそれが、冷たく、よそよそしいものであれば、いくら教えられても、子どもは弱い心をもち、仲間の圧力に容易に屈するようになる。子どもの信仰は、毎日の生活、喜び、楽しみ、発見などから自発的に生じる。


礼拝に出席し、家庭でも聖書を読む

 普通、子どもたちは、そうした親たちをまねることによって、本当の喜びを育てる。道徳的価値と他者への尊重心、結婚、聖別された性、そしてすべての適切な習慣と行動は、教えられるものというよりは、伝わるものなのだ。高潔さや誠実さ、愛、正直の価値などは、親として、あるいは霊的な指導者、教育者としての生活の中で、実例を示すことで伝えられる。
 家庭で祈り、聖書を読もう。米国でも、多くの人々が、教会出席を軽視している。そして、子どもたちが、礼拝を単に日曜日だけのことと考えるならば不幸なことである。生活が世俗的なことがらと霊的なことがらに分割されてしまうからである。ジョージ・ブトリックが次のように書いている。「偽りに満ちた風潮の中でなされる週六日の労働は、結局、一時間の礼拝を破壊する。しかし、平凡な家庭の生き生きとした祈りの積み重ねは、教会の一時間を意味あるものにする」と。だから、家庭で子どもたちに、聖書を読んであげ、日ごとに、神が私たちの生活を導かれた小さな経験を語り合おう。神があらゆる面で、どのように私たちを救い出してくださったかを語るのだ。聖書は、「こういうしきたりやことばはどんな意味をもっているの?」という子どもの問いに対して、親は、「牧師に質問しなさい」とか「教会学校かミッションスクールの先生に聞いてごらん」と答えなさい、とは語っていません。そうではなく、親自身が、自分の人生に起こった救いの物語とその意味をわが子に分かちなさいと聖書は教えている。御言葉を知らない子どもは、頼るものがなく、導きを欠いている。他のどんな教育施設も引き受けることができない役割と機能が、家庭にある。それは、信仰を伝えることなのだ。
ジョン・M・ドレッシャー『子どもに信仰を伝えるための二〇章』(CS成長センター))より

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